映画の見方がわかる本

最近つぶやきプロレスで大活躍の町山智浩さんの著書。 「批評もまた創作」だという町山さんのこれら二つの本はとても読み応えのあるものだった。 今までに観た映画も観ていない映画も「実はこんな背景があったのか!」と目からウロコが落ちまくると同時に「こんな映画の見方できないww」と思わされる本でもある。

町山さんの映画批評に対する姿勢は町山智浩氏の映画批評論 - Togetterに顕著。本書は「正しいストーリー」についてや「監督が意図していること」について、可能な限りの情報を駆使して詳らかにする作業の結実だ。
「こんな映画の見方できない」その端的な理由は上述した「可能な限りの情報を駆使する」ことが実際には無理だから。映画批評を生業にしていない自分には原作やそれに関連する書籍を網羅することや監督にインタビューするなんてことは無理だ。だから職業映画批評家でない人は「劇場に行って映画を観るだけ」で実はなんの問題もない。まぁ「所詮映画なんだからそんな細かいことまで知る必要は無いよ」と言ってしまえばそれまでなのだ。けれど。映画の思っても見なかった面白い部分を知ってしまったときの知的好奇心の刺激のされようは得も言われぬカタルシスなわけで。
本書を読むとそんなカタルシスの材料の供給者としての町山さんを信用してみようかなと思わされる。そう思うに至ったのは本書における膨大で詳細な情報ソースが要因だ。これら情報ソースはある意味で著者の誠意と言っても良いと思う。誠意のある人は信用される。実は情報ソースの真偽など疑いだすとそれはキリがないのだけれど、その疑いは町山さんの普段の活動などから垣間見えるパーソナリティが補完してくれた。

では自分の「映画の見方」にまったく活かせるところが本書から見いだせなかったかというとそんなことはなくて。結論から言うと「封切られた映画で興味あるやつはなるべく映画館で見よう」という至極当然な思いを強固にした。というのも、その映画が生まれた「時代」により近い時期に観るということに重要性を感じたから。
実は、ある事象について「時代」を持ち出して語るのが個人的にはあまり好きではなかった。たとえば何か凶悪な犯罪があったときに「人間関係が希薄なこの現代社会が生み出す闇」というような切り口をTVを中心によく見かけるのだけど、個別の個人や法人の問題であって「時代」や「社会」の問題じゃないだろ、とそういう思いからくだんの論法に違和感を感じることしばしばだったわけです。便利で短絡的な言い回しだという感じがしたし、俺たちまで共犯者にするなという無意識な被害妄想があったのかもしれない。(TVのコメンテータには細かな情報ソースを出す時間もないわけで、その意味ではしょうがないのかな。と、いまでは思える。)
翻って、本書にはいわゆる時代背景が作品に及ぼした影響がそこかしこに記述されている。目を通すだに「なるほど、こういう時代背景がこういう表現を生んだとも言えるのね」と自然に思わされるだけの情報ソースが示されている。映画というものは「時代」を監督というフィルタを用いて抽出させた表現方法なのだ。だったらその時代感をより身近に感じられるタイミングで見たほうが監督の意図を組みやすいのではないのだろうか、と思ったわけだ。

実は「時代」を意識したのは本書の影響だけではない。東日本大震災を経たから、というのも大きい。
たとえば自分なんかは「ヒアアフター」の冒頭の津波シーンにディザスター・ムービーとしての高揚感を見出し「ヒャッホー」していたわけだ。それは震災前に見たから。そしてその感想をブログに記した。しかし、いまこんなことを書いたら不謹慎極まりないしそもそもそんな「ヒャッホー」な気分にならない。 つまり、見方もその感想として著したものの文脈も変わってしまうのだ。
震災直後、いくつかの文章に接するうち、読み手としてしばしば戸惑うことがあった。著された日時が明記していない場合だ。「これは震災前に書いたの?震災後に書いたの?震災後にこういう言い回ししちゃう?」と思わされる文章に少なからず遭遇した。震災前ならあたりまえの言説も時代が変わればその文脈が変わってしまう。
時が経てば経つほど文脈というのは発信者の意図にかかわらず変節するものなのだと痛感した次第。ということからもやはり、その表現の成果物が生まれて間もなく見るほうが、より表現者の意図を汲み取りやすいかもね、と。時が経ってからの再評価、という楽しみも新鮮な時期を味わってからだとより一層興味深いものだろう。

最後に印象に残ったくだりを。

「ひとたびジハードが宣言されると、聖戦というシンプルで大きな目的が日常の苦悩をすべて相対化してしまう」

映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで(映画秘宝COLLECTION) P182

たとえば、映画『トータル・リコール』の原作『追憶売ります』では、経験していない記憶が売り買いされる。いったん記憶をインストールしてしまうと、自分では本物の記憶としか思えない。それがニセモノだと知覚できたら記憶とは呼べないからだ。すると、たとえ記憶を買った記憶がなくても、今の自分の記憶が本物だと確信することはできなくなる。しかも恐ろしいことに、記憶とはたんに過去の出来事ではなく「自分とは何者であるか」という認識そのものなのだ。つまり記憶販売が可能だと知るだけで、人は自分が自分だという自信がなくなってしまう。人間そっくりのアンドロイドがあると知っただけで、自分が人間かどうかは怪しくなる。

〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀(映画秘宝コレクション) P253

人間の自我というのはいかに危ういものなのだろうと思わされる。要は気の持ちようで自分というものはいかようにでもなるのだ。未来は明るいのか?うん、それも自分次第だね。

町山智浩帰国トークライブでも本書に書かれていることが随所に述べられている。副読本として活用してはいかがか。

ちなみに、特定の人物のみの言説を盲信するのはもちろん危険だと思っているのでいろんな意見と接していきたいなとは思っている。町山さんと異なるスタンスの人って誰なのだろう?