塔の上のラプンツェル

5/7に109シネマズ名古屋にてIMAX 3Dの吹替で鑑賞。

自分の汚れと脚本が見事にデフレスパイラル起こしました。

「夢を叶えてしまったら私はどうしたらいいの?」
「次の夢を探せばいいのさ」

念願であった無数のランタンが舞う様を見ながらのラプンツェルとユージーンの述懐。あらら、もう夢叶えちゃったね。どうしようね。次は恋?昨日まで誰とも会ったことないのにもう恋しちゃうの?しかもまもなく手に入れそうって!
小旗の紋章から乳児期の記憶が蘇り、自身が『失われたプリンセス』であることや母だと思っていた人ゴーデルが実は自分をさらった張本人だと悟るのだが、いくら三つ子の魂百までと言えどそれは都合良すぎでしょ。三つ子どころか零歳児ころの記憶だろうし。もし自分が「あなたの両親が実は血のつながっていない他人で本当の両親はこの人達だよ」つて急に見知らぬおじさんおばさんが現れても「んなアホな」でしょ。「ですよねー」つてならんでしょ。
それにラプンツェルがこんなにいい子に育ってるんだからゴーデルはそれほど悪い人間ではないのではない?本人の歳も誕生日も伝えているということでしょ?極悪人だったらその髪を利用するためだけに生かしておくはず。本も娯楽も与えないのではないかな?
おそらく前日までゴーデル以外の人間に18年間交流を持ったことがないラプンツェル。ユージーンや荒くれ者たちとの初対面時は多少の逡巡や戸惑いは見られたものの、誰とでも「初対面でハイタッチ」的なノリってコミュニケーション能力高っ!そのコミュニケーション能力を分けてほしい。荒くれ者たちも最後にはトントン拍子で夢を叶えちゃうしさ。あいつら夢に対する努力したのかね?この映画はまずは夢を持つこと、そしてそれを想い続けること、そして行動に移すことの大切さを描いていて、「行動に移すこと」に関してはラプンツェルに体現させている。そこから「想い続けてる」荒くれ者たちにおいてもきっと努力したであろうと推察させているのだと好意的に汲み取るべきでしょうかね。


総じてラプンツェルの魅力のせいでいろいろコトがうまくいっちゃうところは「あー、持ってんだな、この子。この子に夢が云々って言われてもなー」と卑屈にならんでもない。でもまぁつまりこのラプンツェル、たしかに魅力たっぷり。もうとにかく可愛くて愛らしい。表情の豊かな移り変わり。わりと写実的な造作なのだが大きな大きな緑の瞳がとても魅力的。初めて塔の外に出たときの歓喜と煩悶はコケティッシュで心底和ませてくれた。純真で無垢な少女が自らのポテンシャルをぐんぐん引き出してまわりを巻き込んでいくさまは爽快。
IMAX 3Dで見る映像はとても美しく、特に多数配されているライトニングスタッフの集大成であろう無数のランタンが舞うシーンは圧巻。ラプンツェルが初めて塔の外を出た際の色彩もココロ踊るようでした。あとマックスがマックススピードで助走をつけ跳ね上がるシーンは実際鳥肌が立った。


ラプンツェルが深手の傷を負ったユージーン抱え「時よ戻れ…」とまさに歌わんとする際、ユージーンはラプンツェルの豊かな魔法の金髪を切り落とす。「縛られてはダメなんだ、前へ進まなくては」というメッセージと、仲間を平気で裏切る利己的だったユージーンの見せた利他的な行動。愛情。冒頭の「俺が死ぬ物語」宣言と相まって涙涙…。しかし…ラプンツェルの涙でユージーンの怪我が治るとか…。俺の涙返せww!くだんの宣言は「盗賊としての」俺が死ぬということかな?
ラプンツェルが初めて地面へ降ろしたのはアポロ11号のアームストロング船長が月面着陸の際に降ろした第一歩と同じ左脚。これは偶然?ラプンツェルにとっては未知の希望の世界への第一歩だったわけで、アメリカ的なカタルシスを邪推せずにはいられない。ディズニークラシックス50作目の本作は、塔の外へ出ることで一歩、髪を切ることでまた一歩とラプンツェルが成長したように、過去の栄光に拘泥安住することなくこれからも良作を産み出していくという決意表明でもあるのかなと感じました。


塔の上のラプンツェル オリジナル・サウンドトラック
(オリジナル・サウンドトラック)
WALT DISNEY RECORDS (2011-03-09)
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