反転 闇社会の守護神と呼ばれて

男臭い男の愚直な半生を描く大河ドラマ。登場するバブル紳士やヤクザや政治家たちはやはり市井の人々とは一味も二味も違う濃い味の人たちばかりだ。人間の汚いところやたまに垣間見える誠実さ義理堅さが物語の登場人物としてはやはり魅力的だ。そばに居たらちょっと怖いけど。

育った環境によって、ヤクザを稼業として、食っていくことしか考えられない人間になっている。そういう人生を歩んでいくケースが多い。言葉は悪いが、いわば生まれながらの犯罪者、という人たちが現実にいるのである。
本来、そういう人たちに対してこそ、社会に適応できるようなシステムを作ってやらなければならない。だが、現実問題として、彼らの多くはとり残される。育った環境や周囲からそれを身近に感じとる。そんな境遇にあって、唯一はいあがれると信じこんでしまう道。それがヤクザの世界ではないだろうか。

反転―闇社会の守護神と呼ばれて(幻冬舎アウトロー文庫)P352

ヤクザはある種の必要悪としてその存在意義の一端を提示されている。至極おっしゃるとおりなのだが、ヤクザにずいぶん嫌な思いをさせられたこともある身(と言っても非常にわがままな客としてのヤクザの相手をさせられたという些細なことだが)としては「はい、そうですか」と全面的に受け入れることもできない。「必要」とは誰にとってだろう?僕らにも「必要」な悪なのだろうか?
それら悪と対峙するはずの検察も顕在化しない悪を孕んでいることやバブル時の銀行の悪行、政治家たちのヤクザとの癒着やカネの問題も本書では詳らかにされている。
仮にこれらが真実だとしたら僕らのあずかり知らぬところで悪行は横行しまくっているのだ。それで僕らは被害を被っているのだろうか。必要な悪によるメリット・デメリットの差引勘定はいかばかりか。だれか教えてくれないだろうか。

世の中聖人ばかりではない。仮に聖人しか存在しない世の中になったとしてもその中で「聖人具合」により互いが相対化されるだろう。いろんな人がバランスしてこの世が成り立っている。それは紛れも無い事実だ。こんな混沌の只中で自分はどうあるべきなのか。煩悶は続くだろう。